2017.11.22

『「長野堰」世界潅漑遺産登録され1周年』

長野堰用水は古く室町時代(約1000年前)に上野国守の長野康業(やすなり)により開削されました。今では農業や市民生活に利用され高崎の発展に貢献している施設です。

昔、高崎は丘陵地で水田を持つ農家は水不足に苦しんでいました。そこで長野康業は烏川の水流を水源とする群馬郡榛名町本郷に取水堰を造り榛名町白川を横断して水路は高崎の隅々まで広がります。

それまで雨に頼るしかなかった不毛の地に沢山の水が供給され、430ヘクタールの水田を潤し経済力も豊かになり、飲み水、お風呂、洗濯に人々の生活を向上させ、夏には水浴び、そして度重なる火事の防火用水にも役立ちました。

昭和37年に高崎駅の東にある城東小学校近くに「円筒分水堰」が完成しました。その堰から4水路に分岐「地獄堰」「上中居堰」「矢中堰」「倉賀野堰」へ水は均等に流れ出ていきます。地獄と呼ばれた悲しい水争いが絶えなかった地域には歌碑が建ち「恐ろしや地獄の堰と思いかし悟ればここぞ極楽の堰」と読まれています。

円筒分水堰は水の自然落差の力(サイホンの原理)で水は勢いよく湧きあがり、その優れたデザインの分水型の堰は世界的にも珍しい施設であり、湧き出た水を4つの水路に公平に分けるのも、世界では珍しい堰と言われています。農林水産省では疎水百選にも選ばれている貴重な堰です。

長野堰用水が流れる高崎市小塙地区の川は大川と呼ばれ私の母の実家の近くを流れ、小学生の頃、夏休みに親戚の人とその友達で水浴びに行くと子供たちは次々と激流に平然と飛び込み泳いでいる姿は圧感で衝撃を受けました。秋間の川を堰き止めて遊んでいた私にはこの激流の中に飛び込むことは頭底できず、恐怖心で足が震えたことを覚えています。

現在は長野堰に沿って道路や遊歩道やサイクリングロードも整備され、水路上のポケットパークや沿線の桜並木、4季折々の花木、水の流れは憩いの場となっています。天気の良い日にウォーキングを楽しんでは如何でしょうか。